読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Story of My Life 〜僕が生きた四半世紀〜

■痛みを知った幼少期


両親が自営業で忙しかったため、

主に祖母に面倒を見てもらう。


おばあちゃんっ子。


当時の記憶はほぼ皆無だが、

友達に仲間はずれにされ、いじめられ、


泣きながら先生にすがりついたことだけは、

鮮明に覚えている。



■母親の涙を見た小学校時代


とにかくおしゃべりなわんぱく小僧。

小学校の席替えでは、その権利すらなし。


授業中うるさ過ぎるからという理由で、

席は常に先生の教壇のとなり。

特別席のおかげで勉強はそこそこできた 笑


5年生になった頃。

よくからかっていたクラスメイトが不登校


原因は私と友達たちの行き過ぎた言動だった


もちろん、いじめている気なんて

なかったが、そんな言い訳は通用しない。


放課後、担任の先生とその子の家へ行き、

「ごめんなさい」と、

両親へ土下座して謝罪した。


その後、私の家へ向かい、

先生が事情を母親へ説明。


「あんたがそんな事をする子だとは思わなかった」


初めて見た母親の涙。


「とんでもないことをしてしまった」


直感的にそう感じた。


そして、幼少期のいじめられた経験が脳裏をよぎった。


今振り返ると、自分を守るために、いつの間にかいじめる側になっていたのだと思う。


人を傷つけることは最低だ。


そう心に刻まれたことを覚えている。



■青春を棒に振った中学時代


縁あって中高一貫の男子校へ進学。


女子中高生との甘酸っぱい青春は、

この選択で無残にも断たれることになった。


決断したのは小学6年生。

幼い私には先見性が不足していたことは言うまでもない。


確かに、受験のとき周囲に女の子が一人もいないことは、うすうす気がついてはいた。


しかし、初めての受験で、

緊張してお腹をこわしていた私には、

そんなことを深く考える余裕はなかった。


中高一貫特別クラス。


響きはかっこいいが、それは最も多感な時期を男子のみで過ごすという、アンビリーバボーな学校生活の始まりを意味している。


席替えで「好きな子の隣になれるかなー♪」

なんて甘酸っぱい想いをする機会もない、


クラス替えでドキドキする権利もない、


6年間固定メンバー(男子のみ)での生活が約束されていた。


しかも、入学して気がついたことが

もうひとつあった。


どうやら高等部の先輩たちには、

血気盛んな方たちがとても多く見受けられた。


いわゆるヤンキー高校。


漫画でよく見る「体育館裏のタイマン」がリアルな世界だった。



■一念発起した高校時代


女子高生がいないのはすこぶる残念だったが、男だけの生活もそれなりに楽しかった。


男の意地をかけた柔道トーナメント戦。

クラスの意地をかけたラグビー大会。


体育祭の騎馬戦、棒倒しなんて、ただの殴り合いだった。


なんと言っても忘れられないのが、

伝統の山道マラソン。


もちろん、舗装された道なんかなく、

ひたすら山道を突っ走る漢気溢れるコース。


リアルに野生の猪が出没した。


通称、猪コース。


初めて走るとき、体育の先生から言われた一言は、今でも鮮明に覚えている。


「いいか、今からコースの説明をする。猪コースには3つの分れ道がある。右、右、左だ!分かったな!間違えるなよ!!」


初回は必ず遭難者が出た。


そんなこんなで、1年生の頃は、

普通に男子校生活をエンジョイしていた。



2年生になる頃、転機が訪れた。


全国模試の偏差値が48だったのだ。

自分の学力の低さを初めて痛感した。


それでも、学年では成績が1番だった 笑。


「胃の中の蛙、悠々自適に過ごす」


さすがにまずいなと思った私は、受験勉強に専念すべく、所属していたテニス部を辞めるために、顧問の先生に退部届けを出しに行った。


当時はレギュラーだったので、

顧問の先生とは軽く揉めた。


今振り返ると、完全にいきり立っていた。

高2の春に部活を辞める必要なんてなかった


でも、当時の私は、

スポーツに汗を流す青春を投げ捨ててまで、

大学受験に成功することを夢見ていた。


私が通っていた高校は、

ヤンキーが多いことで、地域住民からは良く思われていなかった。


○○高校というだけで、勉強ができない、

ガラが悪いというレッテルを貼られた。


今思えば、勝手に感じた劣等感だったが、

当時の私としては結構なコンプレックスだった。


「うっし!大学デビューするか!!」


女子大生とのキャンパスライフを夢見て、

猛烈に勉強をスタートさせた。


教室にポットと電子レンジ、冷蔵庫を

友達と持ち込み、放課後も居残って勉強。


他のクラスの奴らからは、

「あいつらよく勉強なんかするよな」と白い目を向けられた。


先生たちもそんな私たちを応援してくれ、

夜遅くまで勉強に付き合ってくれた。


休日も補習授業を行ってくれた。


あれはあれで一つの青春だった。


当時の先生方には本当に感謝している。



おかげさまで、大学受験は無事クリア。


マーチやら関関同立レベルの大学には

余裕で合格できた。


我ながら見事な這い上がりだったと思う。


失ったのはありふれた青春。


手に入れたのは、


少し変わった青春と、自信だった。



■勢いあまって海外へ飛び立った大学時代


6年間固定メンバー(男子のみ)という

汗臭い中高一貫コースを邁進したため、


その狭い世界に悶々としていた私は、

県外の大学へと進学した。


そのまま勢いあまって、

フィリピンの大学へも進学してしまった。


もともと英語熱の強かった私は、

アメリカにでも留学しようと考えていた。


しかし、ある一本の映画との出合いにより、

私の人生は大きく変わることとなった。


その映画の名は「ホテル・ルワンダ


私はこの映画で、途上国という存在を初めて知った。


描かれていたのは史実。

想像もできない、信じられないことばかり。


鈍器で頭をぶん殴られたような衝撃だった。

自分の世界の狭さというか、無知さを痛感した。


それからは、大学で途上国や貧困を

テーマにした授業を選択した。


今まで知らなかった様々なことを学び、

多くの知識がついた。 


しかし、どれだけ教科書を読んでも、

どれだけ教授の話に耳を傾けても、


それは、どこか遠くの世界で起きている

他人事でしかなかった。


「実際に自分の目で確かめてみたい!」


決断するのに、時間はかからなかった。


こうして私は、留学先をアメリカからフィリピンへと変更することになった。


親にも最初は反対された。

なんでわざわざそんな危険な所を選ぶの!?


お金もなかったから、

奨学金を得るために必死で勉強した。


結果は正しかった。


後悔なんて一つもない。


留学先で学んだこと、得たものはあまりに大きく、今でも私の財産となっている。



■異国の地が教えてくれたこと


「フィリピン」


そこは、想像していたよりも豊かで、貧しい国だった。


私が入学した大学は、現地でもエリートしか入れない有名私立大学だった。


それに加えて、学生はみんなお金持ち。

親が経営者や実業家といったメンツばかり。


専属の運転手に送り迎えをしてもらっている学生がほとんどだった。


しかし、一歩大学の外へ出ると、そこは

路上で生活をしている人たちで溢れていた。


きらびやかなショッピングモールのすぐ裏にはスラム街。


努力では越えられない壁が、

そこには厳然とあった。


政治家の汚職は当たり前。

警官は市民に賄賂を要求。


路上にはストリート・チルドレン。

雨が降ると道路は川のように氾濫した。


当たり前だが、なにもかもが日本と違った。



留学してすぐのある日、路上で暮らす

子どもたちに物乞いをされた時は、

胸が張りさかれそうな気持ちになった。


日本に生まれた私。

フィリピンに生まれたこの子供たち。


どうしてこんなに差が生まれるのだろう?


変えがたき現実。


どうしようもできない自分。


胸を痛めることしか、私にはできなかった。



しかし、1ヶ月も経つと

「非日常」は「日常」へと変わる。


ある日、物乞いをする子どもたちに

嫌悪感を抱く自分に気がついた。


「何しにここへ来たんだろう?」


自己嫌悪に陥った。


そんな自分を変えたくて、

ボランティアをしようと決意した。


パソコンを開き、フィリピン国内で活動する

NGO団体をひたすらリサーチ。


片っ端からメールを送った。


「私は日本からの留学生です。

そちらの団体で、何か私にお手伝いできることはありませんでしょうか?」



「国境なき子どもたち」

という団体が私を受け入れてくれた。


私は、パヤタスというフィリピンでは有名なスラム街で、


学校へ行けない子供たちに、算数を教えることになった。


ボランティアへ行ったある日、

現地のスタッフは、ひとりの少女を指してこう言った。


「彼女の母親は数日前に亡くなったの。でも、お金がないからお葬式もできず、遺体はお家に安置したままなのよ」


言葉が出なかった。


衝撃だった。


途上国のことをもっと知りたい。


ここで暮らす人たちのために、

何かできることはないだろうか。


最初はそんな純粋な気持ちだった。


しかし、

貧困とは無縁の世界に生まれた私には、

目の前の現実を受け止めることができなかった。


それに、所詮は期間の決まりきったボランティア。

時が経てば私は日本に戻り、そこには何不自由ない生活がまっている。


好奇心からボランティアに参加した自分に、

強い嫌悪感を抱いた。


途上国のことをもっと知りたい。

貧しい国で苦しむ人々に、何かできることはないだろうか。


全てが傲慢だった。 


自分は何をしにこの国へ来たんだろう?

自分にできることは何なんだろう?

何が正しいんだろう?

 

悩みぬいた末に、

自分なりにひとつの答えを出した。


それは、自分の人生に責任をもつということ


自分が生まれ育った環境に感謝し、


「今」を精一杯生きること。



■レールに敷かれた就職活動


とりあえず一部上場企業。

IT系だと将来性があるだろう。


あとは社会人になったら、

【何か】が大きく変わるはず。


「良い大学を出て、良い会社に就職しよう」


誰がつくったか分からない常識が

頭を支配していた。


そんな簡単な思考で、あっさりと就活を終わらせたつけは、すぐにやってきた。


社会に出ても、根本的には何も変わらなかったのだ。


中学→高校→大学→就職


自分で決めてきたようで、実は決められた枠の中で物事を選択していたことに気がついた。


大学まではいい。

それぞれ次のステージが用意されている。


しかし、社会に出たら、その先は?

定年まで、40年以上ある。


40年間、同じ環境で働き続けるのか?

次のステージは?

このまま一体どこへ向かうのだろうか?


答えの出ない疑問が、次々と頭をめぐっていく。


新入社員にして、働く意味や将来の目標を強く意識するようになった。


そんな想いとは裏腹に、人間関係は会社だけに収束していく。

自分の世界が狭くなることに危機感を感じた。


「やばい、何とかしなければ!」

暗闇の中をひとり必死にもがくようだった。


一つの会社で一生を終える気なんてさらさらなかった。

自己学習と外部の人脈作りに精を出した。



その中で出逢ったひとりの実業家。

その方との出逢いが、私のその後の人生を大きく変えた。


その方は、私の知らない世界をたくさん知っていた。

私が求めていた答えをもっていた。


何より印象的だったのが、

子どものように笑うその笑顔。


「大人でもこんな笑顔を見せるんだ」


私の抱いた第一印象だった。


きっと、年齢を重ねても、

心は若いままなのだろう。


今までに出逢ったことのないタイプの大人だった。


一緒に過ごした時間ではなく、

話した内容ではなく、

その方の「あり方」で、


直感的にそう感じた。


そして、あの頃の気持ちが強烈に思い返される。


20歳のとき、異国の地

フィリピンで感じたあの想い


「今」を精一杯生きているだろうか?



続く。。。